本来ならばそこにあるものがない微妙な違和感
繰り返す変わらぬ日常の裂け目にふと生じる違和感というのがある
そうだな。例えば遊園地という場があるとします
子連れの家族の嬌声や歓声、がたがた鳴り響くアトラクションの機械音。人々が忙しい日常でストレスが溜まった膿を吐き出す場。陽のエネルギーが充満してしかるべき場として存在しています
さぁ、ここで日本の平日の遊園地
例えば『西武遊園地』時間帯は『夕方』とします
そこには、盛り上がりに来たのに寂しくなる空気感が充満しています。子供連れが多い土地柄なのか、早い時間帯から人がいなくなり、乗り物なんか並ばなくても乗れてしまう嬉しいんだか虚しいんだか分からない切ない感じ
乗り物案内人もやる気ないあのグダグダな感じが醸し出す脱力感が遊園地全体を覆い、そのグダグダ感を強調するようにオレンジ色に染まった夕焼けを背景にカラスの切ない鳴き声が鳴り響く
そのように、その場が持つ本来の目的から離れた時に生じる微妙な違和感
僕はその微妙な違和感が大好きだ。特に切なさだったり郷愁を呼び起こさせる違和感
そういう微妙な違和感は日常の至る所に隠れている
例えば
『クラブで朝まで飲んだ後の帰り道』
誰もが寝ている静かな街並みを歩く少し背徳的ながらも甘酸っぱい違和感
例えば
『人のいない夜中に歩くパリのセーヌ川』
観光客でごった返す日中に歩くのでは味わえない一人取り残されたような違和感
人間誰しもが、人と人の関わり合いの中で生きてるからこそ、逆説的に、ふと世界に自分だけしかいないような感覚を味わいたい時がある
人間誰しもが、出会いと別れを繰り返す
その時、その時、その人にとって大事な人であっても、人間は変化していく。関係も変化していく
肌は28日周期、筋肉は60日周期、骨は3年周期で新しいものに変わっていくと言われている
極端なことを言えば、愛する相手は何年後かには肉体的には別人なのだ
それでも変わらない絆というものがある
積み重ねてきたその人との思い出だったり、信頼関係だったり。そういう形にはならない大事なものが、時を超越する可能性を持つ
形になったものはいつか消える
形を持たないものを記憶する脳の細胞は成長期を終えた後は、基本的には分裂しない。変わらない細胞の部分が、個人を定義付けしているというところに人間の面白さと奥深さがある
人間関係は様々だ
変わらずに長く付き合っていく人もいるし、その時、その場所で付き合う人もいる。自分が変化したからこそ出会えた人もいる
中国でこれから出会うであろう人たちも自分が人生の節目で変化して、絵の道を再び志したからこそ出会える人たちだ。逆に、変化したからこそ出会えなくなった人たちも多くいるのだろう
人間関係には賞味期限があるという言葉をどこかで読んだことがある
例えば愛し合っている二人が、死ぬまで添い続けられたとしても、それは賞味期限が長く、二人が生きているうちにその賞味期限が切れなかっただけという考えもある。その考え方も肯定的に見ればいい考え方になる
賞味期限があると本気でイメージすることができれば、きっとどんなものでも大事にしたいと思える。無限にあると思うと人間は大事にしなくなるものだ
時間に対しても同じだ。いつまでもこの時間が続くと思うとだらけてしまう。いつかはこの人生も終わると本気でイメージできれば、毎日毎日を頑張れる。だらけてしまいそうになった時、賞味期限をイメージするのは大事なことかもしれない
初めての中国の滞在先の宿で迎えた夜明け
太陽が静かに雲の向こうから姿を現し始める
街の人々は寝静まっている静寂の時間帯
ふと日常の違和感を感じた。世界に取り残された切ない感じ
アリスはまだ寝ている。僕はぼーっと太陽を眺めていた
寝ぼけた頭がまだ働いていないのも相まって非現実的な時間が流れていた
『あら?なんで中国にいるのかしら』から始まって人生の今までの様々なことを思い出す
時間が過ぎ、街に活気が蘇ってくる。僕の脳みそにも血が通い出す
朝ごはんを作る音。道路を走る車のクラクション。人と人が交わす話し声
街全体が音を出し始める
太陽を覆っていた雲はいつの間にか消え去り、横で寝ていたアリスが起きる
『ご飯食べに行かない?この近くに美味しい四川料理のお店あるみたいよ』
人と人の繋がりの中で生きる大事な日常が始まる
今日から展示会の準備が始まる
今回はどんな出会いがあるだろう
to be continued…
Kensuke Saito
“中国紀行 〜2〜 「人間関係の賞味期限」” への1件のフィードバック