長い夏が終わり、秋も過ぎ去り、冬が来た
ベルリンは夏と冬で、正反対の顔を見せる
夏は、街並み全体が開放的な色彩に溢れ、毎日がお祭り騒ぎのような活気溢れる感じになる
冬は、夏とは真反対で街並みはグレーになり、共産時代が蘇ったような厳かな雰囲気になる
近々、展示会控えていて、自分が描いた絵の説明とか、芸術の事とか色々と思案する毎日だ
「絵って。。芸術って。。なんぞや?」
絵に限らず音楽でも文章でも工芸物でもなんでもそうだけど、物を創る際のやり方なんてアーティストそれぞれじゃない?正解がない千差万別魑魅魍魎な世界だから、それこそ百人いたら百通り正解はあるんじゃないかね?
それこそ感覚のみでやる人もいれば、コンセプトをきっちり考えて考えて作る人もいる
「そんなもん人それぞれだ」
価値観は多様化し、正解がない世の中にあって、思いを貫くのは思いの外に難しい
様々な人種、言語が入り乱れる移民都市ベルリンで、生活しながら絵を制作していくと、今まで、これが正しいと思ってやっていた事なんて吹き飛んでしまう。そして、自分の思想の根っこの部分を見直すようになる
「自分の根っこって。。なんぞや?」
例えば、ブログ書き始めて改めて分かった事なんだけど、自分の感じている事や考えている事を文章や絵などに置き換えていくのはわりと得意みたいね。上手い下手とか、そういう事じゃなくて、それ以前に息を吐くみたいに自然にできちゃうというのかね
なんでかな?ってずっと思ってたんだけど、ある日突然、ストンと腑に落ちたんだ
そういや、幼稚園の頃から小学校を卒業する少し手前までくらいかな
難聴・言語障害者用のトレーニングセンターみたいなの通ってたんだ
そこでは、コミュニケーションに問題を抱える児童が、世の中に出た時に少しでも困らないようにと、自分の持つ考えを文章化したり、絵に描いてみたりというスキルを色々と教えてくれる特殊学校みたいなのがあって、そこで、文を書いたり絵を描いたり様々なトレーニングをしてたわけだ
「絵」
「文章」
今、僕がメインにやっている事の基礎って、結構その時に学んだ部分が大きいわけだ。その後、高校の頃かな。デッサンの予備校とかでデッサンも学んだけど、それは付随的なものなわけだ。。多分
話戻るとブログを書いてる時って、考えて書くというよりは、まず頭の中にあるぐちゃぐちゃしたイメージの塊を彫刻の要領で掘って掘って形にしていくイメージな訳だ。だから考えるというよりは、とにかく文をタイプして、何度もタイプし直したり、編集し直したりして綺麗な形にしていく
絵を描く時も、そんな感じなんだ
コンセプトを考えてというよりは、頭の中にあるイメージの塊を綺麗に紙に定着させていく感じでカキカキ描いていく。そんな感じでどんどん描いていくから、後になってこの絵は何を描いているんですか?って聞かれて答えられない訳だ
まぁ、何を描いているんですか?って聞かれてもな
言葉にならんものを描いているから絵なんじゃないか!って開き直っても先がないしな
それに何より、興味を持って聞いてくれる人にはちゃんと誠実に説明したいじゃない?
だけど、。説明は下手
「何を描いているんですか?」
「何もないということを描いています」
「??」
「宇宙は無です」
「どこからイメージが湧くんですか?」
「。。頭から湧いてきます」
「ほぅ、、頭から」
「イメージか記憶か、、多分どっちかだね」
説明できないと「無」だの「宇宙」「記憶」「イメージ」だのそういう不思議ワードでごまかす羽目になる
多分ねぇ、明確なコンセプトがない人ほど、説明する言葉も不思議な言葉で溢れていく。。これは面白いね
デビッド・リンチなんかもさ、不思議ワードで溢れかえっているアーティストの代表格みたいな人だけど、あの人の場合、悪夢みたいなイメージの洪水の裏側にすごい膨大な量の哲学が埋まっているからな。。一皮むけば、色々出てくるからな。結局、あれじゃない?一皮むいた時にそこに何かがあるかじゃないかね?
あ。そういや、こないだ友人Aと話してて、話題が最近、テクノにハマっておるんだっていう話になったの
「ベルリン来てからテクノにはまってるんだわ」
「ほぅ」
「なんか、音楽に歌詞とかメッセージとかあるのに疲れちゃうみたい」
「まぁ、テクノってメッセージとかじゃないからな。もちろん例外もあるかもだけど」
「え。そうなの?」
「うん。基本、快楽原則だから、音の繋がりが気持ちいいとか、音の構成がかっこいいとか」
「コンセプトは?」
「ない。だから長くやっていく内にコンセプトが宇宙になっちゃうアーティストって多いよ」
「宇宙?」
「とか生命の神秘とかね。そう言っておけば、誰も突っ込めないじゃん?」
「あ。そういや、ジェフ・ミルズも宇宙やってたわ。。」
「だろ?」
「一皮むけば。。」
「何もない」
テクノとかダンス・ミュージックの場合、基本的に追い求めるのって音の快楽原則じゃない?
その幅の中で実験的テクノとかダークテクノとかあるのは触れないでおく。めんどくさくなる
友人Aとベルリンを歩きながら厨二病満載なアート談義は深まる
「でも快楽原則をメインとするテクノと思考をメインとする絵は違うじゃない?」
「ほぅ」
「絵を見て気持ちよくなる人っている?ちょっと、またそれとは違うじゃない?」
「ほぅ」
「キーワードになるのは深みじゃない?」
「ほぅ。どういうこと?」
「昔、映像の仕事していた時があってね。いろんな映像を編集する仕事していたのよ。昔ね」
「映像の編集って面白いよな。編集一つで作品の意味合いが凄い変わるって言うもんな」
「そう。で、職業柄、映像編集にまつわる技術書とかたくさん読んでいて、これだ!っていう言葉に出会えたの」
「ほぅ」
「映画とミュージックビデオの違いについてなんだけど。快楽原則に流されないのが映画、快楽原則に流されちゃうのがミュージックビデオ」
「ミュージックビデオって、MTVみたいな。。あれか」
「この二つの大きな違いって、テンポなんだよ。リズムね。」
「ミュージックビデオの方が、パッパッとリズミカルな編集。映像も見た目重視で派手」
「そう。映画って、逆の考え方で、リズミカルに繋いじゃうと軽くなっちゃう。映画自体も見た目重視で繋いじゃうと空気感がなくなっちゃう」
「ふむ」
「人間でもそうだけどさ、大事な話を伝えたいときってさ、リズミカルに喋らないじゃない?空気もピリッとするじゃない?」
そうなんだわ!
ここまで書いてて気づいた。まず、大事なポイントが二つあります
ポイント1
まず友人Aというのは存在しません。たまに自分の考えをまとめる時に、こうやって架空の人物を作り上げて対話して、自分の考えをまとめる時に使います。そして、彼との対話を通して、「人間でもそうだけどさ、大事な話を伝えたいときってさ、リズミカルに喋らないじゃない?空気もピリッとするじゃない?」という言葉の部分にたどり着けたのが大事なわけですね。この言葉が僕の芸術、、絵に対する考え方なわけです
ポイント2
僕は絵を、快楽原則で作り上げるのではなく、「生命という本質」を描きたいと考えている
そして、生命という重いものを考えていくと、死というものを深く考える時がある。あ。自殺願望があるわけじゃないよ。そういう事じゃないからね。安心してくれたまへ
ポイントまとめ
「絵って。。芸術って。。なんぞや?」から始まった問いに対する僕の答えは「快楽原則」「生と死から見える生命の本質」という二つのワードに絞られていきます
Google検索のごとく、少ない単語でより正確に検索するかのごとく、考えを絞っていきます
ピピッ
いろいろ、脱線混線した挙句、たどり着いたのが「北野武」
芸人の「ビートたけし」の方じゃなくて、映画監督の方の「北野武」
彼の作品が好きだった。中でも1993年に公開された『ソナチネ』が一番好きだった
この作品が、僕の初めて観た北野作品だったわけだけど、まだまだ世間一般的には北野武の映画は売れない、つまらないといわれている頃で、確か、中学生の時だったかな。僕も期待しないで観てみた
まぁ、観る前にどんだけ会話の多い作品なんだろう?と敬遠はしてた
だって、茶の間で喋り倒しているビートたけししか知らなかったから
僕の場合、耳が悪いので観る映画を選ぶ時は基本的に字幕がある洋画だったんだ。言葉が聞こえなくても、字幕があれば問題ないからね。今はDVDになって邦画でも字幕で観れるの増えたから邦画も観れるようになったけど、昔は邦画には基本的に字幕がなかった
そんな状況だから、邦画もたまに観るんだけど台詞が聞こえない時があって内容に追いつけなくなる。そんな理由で邦画は全部つまらないと思ってたわけだ。。絵面も地味だしな
なのになんで『ソナチネ』観たんだろう?多分、何か惹かれるものがあったんでしょうね
で、観た
ぶっとんだ!凄い!こんな凄い映画が売れなくていいのか?と思った
台詞がほとんどないのに映像の力だけでぐいぐい映画の世界に引きずり込まれる。そして、言葉が聞こえなくても映画の内容についていける。映像も綺麗ってわけじゃないけど本質的に綺麗なんだね。北野武が演じる主人公がただ歩いているだけの場面でも画面に凄い引力があるの
この頃の彼は破滅的な生き方をしていたと思う。当時の彼のスナップ写真を見てもなんか死の匂いがあって、それが妙な色気にもなっていた。そして、この映画は昔、彼がフライデー襲撃事件を起こした後に沖縄の石垣島に隠遁した時の体験が色濃く反映されていて、ある意味、半自伝的な映画でもある。だから映画なんだけど、妙なリアリズムがあるんだよね
基本的なプロットとして、沖縄にある組織がトラブルに巻き込まれたため、助っ人に向かった北野武演ずるヤクザの男が罠にはめられて仲間を多数失い、生き延びた何人かの仲間と更に南の島へ逃げていくというシンプルな話なんだけどね。死というものが近づいてきているのにそれに反比例するようにどんどん活力を取り戻して行く北野武の顔が凄いんだわね
そして仲間のみんなも慌てる事なく淡々と南の島の生活を楽しんでいる
紙相撲したり花火大会したりとかね。そんなのどかなシーンでも画面の至る所に死という空気が充満している。。穏やかでくすくす笑えるのに同時に不安な気分になるみたいな。。不安と安心感が同時に押し寄せてくる不思議な映画になっている
で、最後。。唐突に、閉じる。。
観終わった後、この人、大丈夫かな?って心配になった。こんなに死というものを映画の中に取り入れて大丈夫かな?と思ったし、何か不吉な予感みたいなのがあったな
で、しばらくしてバイク事故があった。事故があったとニュースで見た時にびっくりしたというよりは、やっぱりなと。。変な納得感があった
そんな感じがしたくらい、『ソナチネ』という作品は、死という匂いが充満していた作品だったし、多感な時期に見れて良かった作品の一つになっている。そして、この作品の編集のリズムも良かったんだよ。リズミカルに走る事のないどっしりした映画的なリズムを持っていた
現実の北野武はその後、生死の境を彷徨い、生きるほうの道を選んだ
そして、その後の彼自身からなぜか死の匂いがしなくなった。もちろん映画からもかつてのヒリヒリした緊張感は失われていく
相変わらず、映画には自分が出て、最後には死んでいるんだけどさ。。
なんか『ソナチネ』の頃のような自然なヒリヒリ感じゃなくて、作為感を感じるんだ
特に『HANA-BI』以降、映画の方も知名度が一気にあがって売れるようになってからかな。どことなく、作品がメジャー指向になっていって。どんどん毒が抜けていった
死の匂いがしなくなったからつまらないなって。。凄い暴言かもしれないけど、そう感じるんだからしょうがない
彼が死の世界に一番近づいてた時の頃の作品が得体の知れない魅力がみなぎっていて引力があった。生と死の境界線ぎりぎりのラインに立っている緊張感が北野武初期の作品の魅力だったんだろう
芸術の役割の一つに生死を通して、人間を描くという大きなものがあると考えている
『ソナチネ』と、それを創り上げた北野武からは芸術について考えさせられる事が多い
うーん でもどうなんだろうな。今の方が売れている訳だし
世間的には『アウトレイジ』の方が『ソナチネ』より面白いって本気で思うのかな。。
ままま、映画なんて、所詮は大衆娯楽だけどさ、その娯楽の中にも、『ソナチネ』みたいなのがあったりするから世の中面白いわけで。。
人生の哲学を語り合うのが好きな人が多い芸術の都パリに住んでいた時、『ソナチネ』が好きだっていう現地の人が多くいた
先ほども述べたが、まだまだ日本で北野武映画が不人気だった頃から、フランスでは彼の作品はカルト的な人気を誇っていた。そんな彼らが、『アウトレイジ』をどう思っているのか、今、とても興味がある
「絵って。。芸術って。。なんぞや?」から始まってアレコレ思案を張り巡らせてみたが、まだまだ自分が描いた絵の説明や考えをまとめるのに時間がかかりそうだ。このぐちゃぐちゃな思考の過程もブログにアップしちゃって大丈夫だろうかと悩んだが、、
ぐちゃぐちゃも含めて、人生だからな。えいや!
from Kensuke Saito
えっ?そうそう、あぁなるほど。そんな風に楽しませてもらってます。ありがとうございます。
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いつも長文になりがちなので、退屈にならないように構成とか考えるのが好きなので、最後まで読んでもらってなるほどと思ってもらえると嬉しいですね!
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MOJALITHさん
せっかくの触れ合いを頂きましたのでコメントを置かせて頂きたいのですが、投稿を拝見いたしますと、私にとっては重たくて、勘違いも甚だしいと言われそうなコメント内容になってしまいそうです…
それなら、いっそのこと勇気を奮って、一番人気の「芸術ってなんぞや?」にコメントさせて頂くことにしました。
分からないながらも、芸術の分野に関して私が考えたことのある時代は、多分、高校生の頃だったと思います。
何分にも、何方かの受け売りのような側面が多々あるのですが、何とか自分なりの側面/視点から捉えようとしたものです。
まず考えますことは、芸術を定義・規定しようとする場合に、芸術家と言われる方々が行うことが妥当なのかということです…私は、その妥当性に疑問を持ちます。
何故なら、定義・規定は学問の分野ですが、芸術=学問とは思えないからです。
大体にして、芸術家は、そんな定義・規定を考えながら創造しておられるわけではないと思っております。
国語辞典による芸術の定義は、
「特定の材料・様式などによって美を追求・表現しようとする人間の活動。および、その所産」
とあります。
Merriam-Websterによりますと、”art”で一番最初に使われた意味は
「skill acquired by experience, study, or observation」
(経験、研究/勉強、あるいは、観察によって習得された技術)
とあります。
日本で言う芸術らしき意味は、意味の歴史では4番目に出てきてますね。
「the conscious use of skill and creative imagination especially in the production of aesthetic objects」
(特に、美的物体の制作において、技術と創造的な想像力を意識的に使用すること)
勿論、芸術の定義に英語が妥当なのかという面もありますが…それは置いときまして…
英語の定義には、何かを表現する技術という面が強そうです。
両者の定義の重要な要素として「美」という言葉が出てきますね。
それでは「美」とは何ぞやを明確にしませんと、先に進めなくなります…
同様に辞書で調べますと、両者の定義に共通する要素として「心地良さ」があります。
(美と醜の定義に関しては、私は昔々から信じているものがあります…宗教とは関係ありませんが)
それでは、「心地良さ」がなければ芸術とは言えないのでしょうか?
ノルウェーの画家であるムンクの「叫び」は、いわゆる、芸術ではないのでしょうか…心地良さとは掛け離れた作品だと思うのですが…
そのような例を挙げるまでもなく、芸術は「美」とか「心地良さ」などを超越していると私は思うのです。
芸術を最大公約数的に捉えるなら、高度な表現力でもって人に感銘を与える制作活動であり、かつ、作品だと言えそうに私は思います。
創造的な想像力においては、芸術家には秀でたものがあると思いますが、芸術家ではない人々の中にも、そのような想像力に長けた、あるいは、芸術家以上に優れた方々もいると思います。
そのような人々と芸術家の違いは、表現する技術を持っているかいないかの点にすぎないのではないでしょうか。
そのように考えますと、芸術の基本要素は、技術(表現力)にあると思うのです。
つまり、”art”の原義に戻ってしまいます。
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simple10さん
せっかく、コメントいただいたのに、チェック漏れしていたみたいです。すいません。
コメントを読んでみたのですが、そうですね。僕も考えてしまって安易に答えは出せそうにないですが。。
そうですね、。僕の事に限って言うと、芸術の事を定義、規定はしてないかな。自分の絵を説明するために、他のメディア、、例えば、言語とか映像を使って、色々な方法で説明したり、定義付けをしたりはしますが、芸術全般になってしまうと、もう答えのないカオスな世界だなっていうのが実感です。その中で、周りのどうやらこうやらに惑わされずに自分を貫いていくのも大事なのかなと思っています。
それと、英語はっきりしているし曖昧な部分が少ない言語なので、定義付けに向いていると、僕も思います。ただ、そこから言葉化できない何かがこぼれ落ちてしまっている感覚があります。日本語って、そのこぼれ落ちている微妙なニュアンスを表現するのに向いている言語なのかな。と。その分、定義付けには弱いです。アートの世界では、英語による定義付けが大事ですが、その一方、言語ができない微妙なニュアンスを、言語による説明ではなく、映像を使ったりして、色々な方法で伝えたりしています。
それと、芸術って、今では枠も広がってきて絵に限らないジャンルになってきてますね。でも、共通するのは、simple10さんの言うように、高度な表現力でもって人に感銘を与える制作活動を芸術というのは、僕もその通りだと思います。
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